見境ないオタク

アニオタ・ドルオタ・腐女子という三重苦と共に生きています

父についてウソのような本当のオカルト話





わたしの父はUFOを信じている。
ネッシーを信じている。
雪男を信じている。
秘密結社を信じている。

しかしもう異次元は信じていない。






私が物心ついた時から父はいわゆるオカルトマニアだった。

寝室の箪笥の上には大量のムーが鎮座し、普段はテレビに頓着しないのにユリ・ゲラーが出る番組だけは必ず見た。
フリーメイソンイルミナティなどの秘密結社について話す父は何をするよりも楽しそうだった。



そんな父が一番傾倒していたのが、異次元だった。

五次元、アセンションという言葉を聞いたことがある人はあまりいないかもしれない。私はずっと昔から父がこれらの話をするのを聞いていたがそれでも詳しくはわからない。

ともかく父は異次元、精神世界に対して関心を強く持っていた。
偉大なる預言者の天変地異の予言や次元が上昇することで精神が重要となることなどを私たちに話して聞かせた。
スピリチュアルCDを聞きながら二階の部屋で一人仰向けで寝ながら手を合わせているのを見たときは流石に肝が冷えた。




そんな父が、突然自分の本を全て処分すると言いだした。

父が買ってきた本は言うまでもなくスピリチュアル関係のものばかりで(私たち家族はそれをスピ本と呼んでいた )、中には絶版となった物をオークションで高値で購入したものも数冊あった。全て合わせると数十冊はあった。

煙草も酒も普通のものだけ、酒は発泡酒と安い焼酎で十分と言い、好きなスポーツがある訳でもない、贔屓の球団もない、お洒落にも無頓着で休日には庭の草むしりをするか昼寝をするかスピ本を読むかだった父が、そのスピ本を捨てると言った。

他の家庭の父親を見たことがないから何とも言えないが、スピ本を手放した父はあまりにも何の特徴もない、摑みどころのない、一気に遠い存在になってしまったように感じた。





そもそも父はなぜスピリチュアル系に傾倒していたのか。
母に聞いたが、結婚する前からギリシャ神話や古事記UMAなど不思議なものが好きな人だったらしい。母は自分の知らないことを知っているところにも惹かれたとか。まさか惚気を聞かされるとは思ってもおらずゲンナリした。


父がスピ本を手放した理由の一つに考えられるのが、父の妹(つまり私の叔母)である。



父の妹は一卵性の双子だ。盆正月くらいしか会わないが、顔の見分けはほとんどつかない。話していても同じ言葉を同時に言ったり相槌も全く同じであったりする。

そんな双子の叔母は昔からよく同じ夢を見たり同じ言葉を夢の中で聞いたりしていて、それを父に話して聞かせていたそうだ。

そして父の実家は、田舎の中でも田舎と言ってもいい山の中で、先祖や霊に対する信仰が強い。お墓は家のように屋根や扉が付いていて、仏壇も仰々しくそれとは別に仏様が数体いる。


双子の理解しがたいシンクロと土地柄から父は不思議なものに対する興味を持ち始めたのかもしれない。


父がスピリチュアルに傾倒するきっかけも父の双子の妹だったが、父をスピリチュアルから遠ざけたのもまたその妹だったと考えられる。





父は今年の春、突然京都に行くと言い、間も無くして京都に飛んだ。






父の双子の妹の一人は一度離婚しており、地元の人と再婚した。しかし、再婚してすぐ二人は京都に移った。

その理由が、妹が聞いた「お告げ」だった。ウソのような本当の話である。私も身内じゃなかったら信じていない。


妹のお告げによって京都に飛んだ夫婦は、しばらくして父にある文書を送ってきた。彼女は書道を嗜んでおり、それはそれは達筆なもので父は私にそれを解読してほしいと頼んできた。
その内容が漢文のようなもので、レ点や一二点で書かれたその文書は妹が京都のとある場所で見つけた書物の複写らしかった。
国語の成績だけでギリギリ生きてきた私なら漢文も読めるだろうと父は私に頼んできた。

しかし、その文書は内容がちぐはぐで、書き下しにしようも出来ないような文がほとんどだった。日本史で出てきたような人名位しかわからないような一説もあった。

一応ノートに一通り書き出して父に渡し、これ以上解読しようとしても無駄ではないかと説明した。それほどまとまりがなく、意味があるとは思えない文だった。

そんなこんなで父は京都に飛んだ。後から聞いた話だと妹に呼ばれ至急行かねばならぬと飛んだらしいが、その時は私達家族には何の説明も無く突然京都に行ってしまい、もしやこのまま帰ってこないのではとちょっと思ってしまう程の勢いだった。


そしてそのまま2、3日音沙汰も無く連絡も取れない状態だったが、突然「帰る」とだけ連絡を寄こし、飛行機に乗る金が無いから振り込んでくれないかと言った。父は計画性が無い訳ではない。帰りの旅費のことを考えていなかった位急ぎで京都に行ったのだろう。


そして父が我が家に帰るとすぐ、スピ本を全て捨てると言いだした。



父は、自分で自分のことを神と言う人は信用ならない、としか私達には言わなかった。








ダンボール数箱分にもなるスピ本はブックオフで千円足らずにしかならなかった。


それでも父はなんの未練もない顔をしていた。






間も無く妹夫婦は京都から実家に帰ってきた。噂によれば旦那が無理やり連れ戻したとか母(私の祖母)が呼び戻したとかなんとか。今は実家で祖父母と旦那とで暮らしているらしい。





スピ本を捨ててから、父の休日は草むしりか寝るだけになった。




私達家族は父がスピリチュアルマニアだったことを別に嫌がってはいなかった。むしろ面白いと思っていたし度々お互いネタにしていた。頭大丈夫かな〜と思いながらも父がまともだとよく分かっていたからこそ本人を前にネタにもできたし友人にも笑い話として話せてきた。


だからこそこれからの父のことを思う。スピリチュアルを捨て、スピ本を捨てた父はこれから夢中になれるものができるのだろうか。





今、父はマツコデラックスがお気に入りだ。バラエティを毛嫌いしていた父を思うと謎ではあるがマツコデラックスが出る番組は欠かさず見ている。
私がお熱のHey!Say!JUMPにも詳しくなり、私がしつこくライブDVDを見るせいか最近の鼻歌は専らカモナマイハウスかマジサンシャインである。カモナマイハウスに至っては若干踊れる。
重版出来に出ている最上もがを見て、最上もがを知ってる50代も中々おらんだろうと満足気だ。



今でも不思議なものは好きで、隙あらばディスカバリーチャンネルの怪しげな番組を見ようとしたり本当にあった呪いのビデオを朝イチで楽しそうに見ている。寝起きで心霊映像がテレビに映っているのを見る羽目になる娘は寝覚め最悪である。



父はスピ本を手放してから少し寂しげではある。父が京都で何があったかは知らないし、今後知ることもないだろう。
でも、スピ本を手放したからと言って憑き物が落ちたとかそういう訳ではないし張り合いがない父が嫌だという訳でもない。父は変わらず父だ。


特段裕福な家庭でもないしど田舎に産まれ美人にもならなかったが、私はこの家に、父の娘として生まれて幸せだったなーと思う。
生まれ変わってもまたこの家庭に産まれたいと思う程度には満足している。たとえ来世では父の天パを遺伝したとしても。欲を言えば来世ではもう一踏ん張りして美人に生まれたい。


父の日を前に父に対するデレとウソのような本当の身内オカルト話を書いてみたが、これが父の目に触れることもないだろうし直接言う気もさらさら無い。墓まで持っていく所存だ。

だから今年の父の日にはちょっと良い値段のする焼酎グラスでも買ってあげようと思う。

去年は安いタオルで済ませてごめんやったけど、今年は期待しとけよ!





ハガレン実写化について私思うの






最近ツイッターが実写化に関する阿鼻叫喚で溢れている。

ハガレンの実写化にはじまりなに?次はジョジョなの?

今朝のワイドナショーで取り上げられたこともあって阿鼻叫喚ぶりも収まりがない。





毎度毎度漫画・アニメなどが実写化するたびに賛成派と反対派でプチ戦争みたいなものが起こるが今回それについてわたしの思うところを書きたい。




今回騒がれているハガレンの実写化について、アニオタであると同時にジャニオタである私としてはどちらの気持ちもわかるつもりである。
好きな作品が実写化されることに対する戸惑いも、好きなタレントが起用される喜びもわかる。だからこそ色々と思うこともある。






■メディアの違い

実写化に嫌悪感を持つ人たちの言い分としてよく見られるのは
・世界観が実写では無理
・ビジュアルが無理
など、視覚的不満を持つ人が多いように感じる。他には有名な原作を使えば儲けられると考えているであろう制作側への不満や尺への不満も見られる。


元々ハガレンは漫画が原作で、次いでアニメ化、そして現在実写化の決定に至る。

なぜアニメから実写に至ると批判が集まるのか。


メディアとしてハガレンの推移を見ると当然だが
漫画→アニメ→実写 
という形になる。

私の考えとして、物語の媒体としてのメディアは大きく見ると文章(詩・短歌等含む)、漫画、アニメ、実写、楽曲に分類され、具体性を持っていく流れを
「文章→漫画→アニメ・実写」
と表せるのではないか(楽曲に関しては文章の前後どちらかと考える)。文章での表現が心の声や時系列を自由に行き来しやすいことなどから具体性の位置が妥当ではないと考える人もいるかもしれないがあくまで一例である。

文字表現だけの文章に、絵やコマによる動きが加えられた漫画、それらに色・声・音・具体的な動きが加えられた漫画、となる。

そしてここで実写の立ち位置だが、私はアニメと実写の表現の具体性に関しては同列に置くことができると考える。

アニメと実写の違いとは何か?
実写になることで失われる表現は?また逆に実写がアニメになることで失われる表現はあるのか?

ハガレンを例にとると、西洋のファンタジー的世界観が実写では無理があるという意見が見られる。失われる表現としての懸念を挙げるならば、「世界観」を挙げることもできるだろう。
しかし昨今の技術力の進歩ならそこまで心配することもないと感じる。ハリーポッターなんて魔法界でドンパチしてるのに実写されても違和感なく楽しめるのだ(原作ファンももちろんいるが)。お金をどれだけかけるかにもよるだろうが、メディアの違いからアニメから実写にするにおいて失われる表現がそこまで大きいとは考えにくい。

アニメと実写は、映画という観点から見ると、物語を描く次元が二次元と三次元(場合によってはCG映像を含む)で異なるだけで、表現の要素としてはどちらかが劣ることはないはずなのである。




■最初になにに触れたか


アニメから実写になることへの不満はなぜくるのか。
今回のハガレンに関しては公開前から批判が集まっていることが注目点である。制作が決まっただけで見てもないものに対してなぜここまで批判が集まるのか?

単純だが最初に触れた作品への思いからくるものだと考えられる。

アニメファンからすると実写の完成度云々の話ではない。アニメで完成されたハガレンを別の媒体ですることが信じられないという感情が敵意となってしまうのではないか。

例えば肉じゃがでも家庭によって大方豚肉か牛肉かで分かれるが、豚肉家庭は「牛なんて乳臭い肉で作れるわけねーーーだろ!」、牛肉家庭は「豚なんて安い肉使って貧相な肉じゃがだな?」となるわけであるが、別に豚にも牛にも優劣は無いのである。豚も牛も美味いのである。稀に鶏派もいるのである。


アニメと実写に関しても同じことが言えるのではないか。
今回のハガレンに関しては原作が漫画だったこともあり、漫画→アニメときたことからハガレンといえば漫画・アニメだという考えの人が多い。だからこそ以降に決定した実写という別の表現を受け入れがたいのではないか。ハガレンのイメージをアニメで育てた人は実写を受け入れがたい。肉じゃがのイメージを牛肉で育てた人は豚肉を受け入れがたい。
そして、自分が育ててきたイメージを肯定的にする・守るため別の表現を攻撃してしまうのだ。豚肉で肉じゃがを作る人を、自分が牛肉で肉じゃがを作ってきたことを肯定するため貧乏人だの油っぽいだの罵ってしまうのだ。全ては愛からくるのである。





■付け加えられる悲しみと削られる悲しみ


ハガレンは実写映画化ということで、ファンからすると二つの問題を抱えている。

まず一つ目は先程まで書いていたように実写に対する受け入れがたさであるが、もう一つは映画化という点である。

漫画からアニメ化となると、キャストや作画の心配はあるにしてもアニメ化される前から尺のことで批判が来ることはあまりない。
アニメ放送が決まって、例えそれがワンクール分であったとしても基本30分を12話分で6時間は見込める。しかもワンクールとは限らず何クールも続けば問題は無いからだ。

しかし今回は映画化ということで、見込める時間といえば多くて2時間前後だろう。シリーズにならない限りワンクールの三分の一程度の時間で物語を構成しなければならない。

漫画やアニメで描かれていた全てのキャラクターの描写や過去を2時間に詰め込むことはほぼ不可能である。
そのことからストーリーを削られることが予想され、ファンはそのことに対する悲しみがある。
そしてその削ったストーリーから来る矛盾の補填や映画版に収めるための工夫として、原作やアニメにないキャラクターやエピソードの追加も予想され、そのことに対してもファンは悲しまざるを得ない。


原作・アニメファンは、映画という制約から削られる悲しみと付け加えられる悲しみの二つを見る前から予期している。




■締め 


じゃあ実写映画化はしないほうがよいのか?

正直別にしなくても良いとは思う。だって今まで何年も実写化されてなかったけど実写で見た〜〜いと思ったことも考えたこともなかったし。


でもやると決定したら別にそれを批判する必要もないと思うのだ。

原作者の意思に反して勝手に実写映画化するともなればそれは批判されても仕方がないが、仕事をする人たちが円満に製作する限りは、批判する理由もない。

ジャニオタしか喜ばねえ映画作るなというような意見も見られるがジャニオタが喜んで見ればそれはそれで結構なのではないか。ジャニーズをつかってジャニオタが釣れなかった時の方が悲惨である。

普段アニメや漫画を見ない人がハガレンのストーリーを見るきっかけと手段としての実写映画化と考えれば万事解決するのではないかと思う。映画は見ることを強制されることはない。原作やアニメが好きな人は実写は見ずに自身の中のハガレンを変わらず持っていればいいと思う。実写なんて無かったことにすればとりあえず心穏やかになれるはずだ。



私自身ちょっと昔の小説やミステリーが大好きなのだが、それらの小説がブームや記念的な意味でアニメ化・漫画化・ドラマ化したことがある。
見てみてめっちゃいいやん〜〜てなる時もあればいや私は何も見てない何も無かったと即刻見るのを止めたものもある。
何がダメだったのかもわからないようなものもあれば、主人公の性別を変えられても楽しめたものまであった。

元も子もないことを言うと個人の好みなのである。

元々好きだった作品のビジュアルに惹かれていればビジュアルが変わった次作は批判したくなるし、構成に惹かれていればメディアの違いから来る表現の変わりようにも批判したくなる。元々の作品の何に惹かれていたかは人それぞれだ。全てに惹かれていたのなら次作は潔く見切りをつける。アニメ・漫画・実写のメディアの好みもあるだろう。



そして自分に合わないと思った作品にも少なからずファンはいるし、自分が好きだと思った作品を嫌いという人もいるからもうね、万人に受けるものは作れないの!なにも!仕方がない!
私が作った卵焼きをおいしいと食べてくれる弟とケチャップどばどばかける父がいるのと同じなの!だけど父の偉い点は私に文句言わないの!こんなクソ味薄い卵焼き作りやがってケチャップないと食えねえよボケとは言わずしかし問答無用でケチャップをかけます!

だから私たちも不満があるものにはいちいち文句言わないで黙って見ないなりケチャップでもなんでもかけて食べるなりすればよいと思うのです。




同担拒否に関する個人的考察

わたしの近年の疑問トップテンに常に入る問題がある。



同担拒否とは






わたしが好きなことといえば悶々と考えることくらいなので、同担拒否についても暇があるときにはよく考えていたがさっぱりわからんス。
同担拒否について色々聞きたいのだが残念ながらわたしの周りに同担拒否は見当たらない(はず)で聞こうにも聞けない。悶々。モンモン。

私は手遅れなHey!Say!JUMPオタクなので例として挙げるのも勿論彼らなのだが、
ツイッター大好きおばさんこと私はほぼ毎日彼らの名前をツイッターの検索欄に入力して情報収集をする。そしてその際よく見るのが「同担拒否」である。


私は妖怪私の沼に引きずり落としてやるモンスターなのでもう同担拒否とはほぼ真逆であると思われる。
正直自分には同担拒否みがミリも無いので同担拒否が実際どんなものなのかは詳しくはわからない。
そんな私が無理矢理字面とツイッターのみから同担拒否について考える。



私なりに「同担拒否」の部族分けを試みると、
・私だけのダーリン族
・同担のにわかはすっこんでろ族
・同担の顔ファンはすっこんでろ族
・頭ではわかってるけどごめんね無理族
といったところに分類できた。


「同担拒否」とは見て字の如くで私と同じ人を好きにならないで!的アレだと思われる。
同じ同担拒否でも、
・私だけのダーリン族
・頭ではわかってるけどごめんね無理族
・同担のにわかはすっこんでろ族
・同担の顔ファンはすっこんでろ族
では捉え方が全く違うのではないか。



まず前者のダーリン族は、同担拒否の担対象を「1人の男性(女性)」として捉えているのではないか。
簡単に言うと、私の好きな人を好きにならないで、であるがそれではただの同担拒否そのままである。
例えば自分の彼氏(彼女)を好きになられるのは嫌、自分が片思いしてる人を好きにならないで欲しい的なアレだと考えられる。

このダーリン族が他と大きく違う点は、担対象と自分とを同じフィールドで見なしている点である。アイドルである担と自分を一対一と見ることで同担に対して略奪的、不倫的、浮気的な嫌悪感が来ることからこのような拒否が見られるのではないだろうか。




同じく前者の頭ではわかってるけどごめんね無理族は、上記のダーリン族とは対象的に担をアイドルとして、つまり自分の手の届かない違うフィールドの人間としての認識をしている。

担対象が万人に愛されるアイドルなのはわかっているけど、別に自分だけのものじゃないのもわかってるんだけど、なんか無理という具合ではないだろうか。
複雑な乙女心が招くタイプの同担拒否である。









後者は共通してすっこんでろ族なのであるが、すっこんでろする対象の違いである。

同担のにわかはすっこんでろ族は文字通りにわかをシャットアウトする族である。

何らかのきっかけで分かりやすく日の目を見た人物が生まれると発生しやすいのがこの族ではないだろうか。
このにわかシャットアウトはさらに分類され、
・増えすぎる同担への牽制
・ちょっと有名になっただけで食いつきやがって
・こちとら長年応援してきとるんやぞ
など様々見られる。

このすっこんでろ族は厳密に言うと同担拒否とは限らない。
にわか全体を拒否する派と自担のにわかを拒否する派に分かれており、前者は同担拒否とは言えないがここでの言及はとりあえず置いておく。


最後に同担の顔ファンはすっこんでろ族。
そもそも顔ファンとは。容姿に惹かれたファンを指す。
その顔ファンを拒否するという心理は、
 ・中身も知らない癖にファン名乗ってんじゃねーーーーーよ!
・私は顔じゃなくて中身が好きなんです一緒にしないでください
的な感じだと考えられる。

この顔ファンすっこんでろ族自体も同担拒否とは限らず、顔ファンそのものに対する拒否を見せる派と同担の顔ファンのみ拒否する派がある。




この、ダーリン族・ごめんね無理族と、同担のにわか・顔ファンすっこんでろ族の同担拒否は拒否の理由が全く異なるのではないか。


前者のダーリン族とごめんね無理族は、愛の大きい担への拒否反応である。言うならば、因縁のライバル的な拒否反応ではないか。
ダーリン族に見られる、私が好きな彼を好きって言わないで、という感情は、自分がアイドルと同じフィールドにいるとしていると同時に拒否する担も同じフィールドに上がらせていることになる。

実際アイドルと付き合うようなガチの同じフィールドの人物は同担(ファン)をライバルだとは思わないだろう。自身が他の大勢のファンとは違うフィールド(アイドル側の)にいることを自覚し、ファンに対して嫉妬することなどないはずだ。


ダーリン族は自分をアイドルと同じフィールドに置きながらも、内心では自分もファンの一人であることを自覚していることから同担に対する拒否が発生すると考えられる。
つまり、拒否反応が出るということは拒否対象も同じフィールドに置いている。担に対する愛情も同様同じフィールドと見なしていることから、拒否はしていながらも無意識にファンとしては認めているはずなのである。

ごめんね無理族も、ダーリン族ほどはっきりとした感情が見えないにしてもファンとしては拒否対象を認めているとの側に分類できると考える。




対して後者のすっこんでろ族は、愛の小さい(と考えられる)ファンへの拒否反応である。
好きになったのが最近?どうせすぐ飽きるんでしょ?的、顔が好きなの?どうせ顔しか見えてないんでしょ?努力とか見てないんでしょ?的な感情は前者とは異なり、拒否対象をファンとすら認めていない節すらある。
すっこんでろ族は拒否対象を同じフィールドには置いていない。自分たちと同じファンとは呼びたくないとるに足らない不愉快な対象としての拒否反応が現れている。



同担拒否という枠組みから外れたところでも
にわか・顔ファン拒否はよく見られる。
それとはまた逆ににわかや顔ファンを良しとし、受け入れるファンもいる。



同担拒否について考えるとファンの心理についてもっと考える必要があると感じた。










アイドルとは。宇宙のような広がりのある言葉だ。どれだけ考えてもアイドルへの関心は尽きない。


大衆に自身の身を提供するアイドルとそれを享受するファン、彼ら彼女らをアイドルたらしめるものは何か、何が彼ら彼女らをアイドルにさせているのか、考えれば考えるほど尽きない。噛めば噛むほど味の出るあたりめのような存在。アイドルはあたりめだったのだ。


一部のファンに石投げられそうな内容になったが、それでも私はアイドルについて悶々と考えることをやめない。モンモン。









わたしのオタクライフ時系列語り




わたしは気づいたらオタクになっていた訳だが、人生を狂わされたと言ってもいいアニメカルチャーファーストタッチを気づいたらで済ませてもよいものかと思い立った。


今回はただ自分の記憶を掘り起こしつつ黒歴史と向き合うだけの記事になる予定である。






そもそも何でわたしはオタクになっているのだ?どのタイミングだ?と思い返してみたら、意外にも自発的なスタートではなかった。


人生初漫画は「ちゃお」で、小学二年生の夏だった。小三だったかも。病院の待ち時間が余りにも暇で親が見兼ねて買ってきたのがそれだった。たしか漫画家の女の子のやつとかそこらへんだった気がする…

初めて買った漫画に関しては自分の意思では無く、しかも以降「ちゃお」に関しては何故か親が買い物のたびに何も言わずとも買ってきてくれて、実際に自分で買ったということは記憶にはない。


なんだかんだで小五位まで買い続けた(買い与えて頂いた)ちゃおで事件は起きる。

赤西仁くんとの出会いである。

今でも忘れもしない、赤西くんがミニブタと戯れるページに完全に恋に落ちたわたしはその紙面を見た日から少年倶楽部を欠かさず録画し雑誌はpotatoを買う日々が始まった。

小二から少女漫画月刊誌を購読していたからといってその頃からオタクライフが始まったかというとそうでもない気がする。買い始めて一年過ぎた辺りから自分でも惰性で買ってるな〜感が出ていたのは否めない。連載を途中で読めなくなるのはなんか勿体無い一心で買ってもらってた気がする。

そして少女漫画から赤西くんにシフトチェンジしたわたしは晴れてジャニオタデビューを果たしその日から自分は赤西くんと結婚する意外の未来はないと思い込んでいた。
正直授業中も「なんか突然番組の企画のクソど田舎の学校に来る的なやつでいきなり教室に赤西くんが現れてなんだかんだでわたしに一目惚れしねえかな〜〜そのまま東京で嫁に貰ってくれねえかな〜〜」とか考えつつ赤西くんと結婚したら苗字かわるのか〜〜と思いながら赤西に自分の下の名前を合体させて机に書いては消し書いては消しを毎日飽きもせずしていたのである。そもそも小学生で嫁にもらわれるはずがないのである。アホである。身の程知らずめ。

無情にも赤西くんが学校に迎えに来ないまま時は過ぎ、そんな中空前のD.Gray-manブームが我が小学校で起こる。
ちなみにその頃なぜか家では家族揃ってレンタルでBLEACHを見るという生活を送っていたが特にキャラ萌えに走る訳でもなく普通に、面白えな〜的な感じでバラエティを見るような感覚だった。

そして空前のDグレブーム、なぜかその時仲の良かった子たちが一斉にDグレにはまり、わたしは本能で「ここでついていかないとハブられる…アカン…」と思ったが特にDグレを見ようともしなかった。この時はまだ赤西くんさえいればいいや状態だったからだ。

しかし友達の会話はほぼDグレ一色となりいよいよヤバいか…と感じ始めていた頃。友人の一人がDグレのアニメのエンディングかオープニングだかの、昔に見た映画みたい、みたいな歌詞のところが何回教えても上手く歌えないという話題で持ちきりとなり、
むかしーにみた えいがーみたい
むかしーーにみた えいがーーみたい
になる的なまー微妙な違いだった訳だが、
友人達が余りにも何度も熱心に説明するためそのフレーズだけ覚えてしまい、自分は一度も聞いたこともないのになぜか教える側に回っていた。
そのことからなぜかわたしもDグレを見ているような雰囲気になり、好きなキャラみたいな話になった時、咄嗟に齧った程度の知識でラビ、と答えたのがわたしのオタクライフにいたるまでのきっかけだったように思う。

いよいよ好きなキャラをノリで答えてしまった私は、このまま誤魔化して押し通してはいけぬと観念しDグレにうっすら手をつける。
しかし、わたしがDグレBLEACHと赤西くんの三足のわらじ状態になっている中友人達は次のステップに進んでいた。声優である。

正直その頃生身に関しては赤西くんしか目に無かったのでなんのこっちゃだったがとりあえずインターネットで検索するとなんやかんやで櫻井孝宏という沼に落ちてしまった。オタクに染まった瞬間である。後に神谷浩史という底なし沼が待っていることをその頃のわたしは知らない。

その頃から赤西くんの夢小説を読み漁っていたわたしはBLEACHにも夢小説なるものがあることを知ってしまう。一気にオタクランクステップアップである。
そしてBLEACHの夢小説を読み漁る中やつと出会った。ホモサイト。ここからわたしの人生がバラ色に包まれる。
最初こそ未知の世界にマジかよ状態だったが、小学生にして謎に培われていた雑食精神はホモをもいとも簡単にバリバリと食しいつの間にかホモ無しでは生活できないホモ漬けの人間が出来上がっていた。わたしは市丸ギンという男を絶対にゆるさない。

そうしている間に中学に進学、私の嗜好は裏で元気にホモを嗜み表向きはライトなオタク、本屋ではドル誌を立ち読みし赤西くんやKAT-TUNで目の保養という完璧な状態となっていた。その間KAT-TUNはメジャーデビュー、金は飛びに飛んだ。

ここからは怒涛のオタク(ホモ)ライフである。
強靱な雑食精神でホモと名のつく流行りジャンルに全て手をつけこの世にホモに出来ない男はいないというところまで来ながらもハレハレユカイともってけセーラー服を踊り、お年玉を切り崩してライトノベルを買い漁り、カラオケで星間飛行を歌うという縦横無尽っぷりを発揮し人生をエンジョイしていた。

ちなみにこの頃大泉洋という男が赤西くんポジションに忍び寄っていた。


そしてなんやかんやを経て現在に至る。高校時代はごちゃつきすぎているので今回は割愛。

最初は友達減らしてたまるか精神で手をつけたアニメが今わたしの人生をこんなにも明るく照らしてくれている。神に感謝である。神というかあの時Dグレのエンディングだかオープニングだかを上手く歌えなかったあの子に感謝である。あの子が歌えてたらアニメに手を出すきっかけもなかったのだ。

そして今わたしはアイドル沼でえら呼吸を習得しつつゆったりとアニメとホモを楽しむという、わたしの中での最高のオタクライフをゲッツした。イエーイ。

今後この状態にどんな変化があるのか楽しみだが今はただ八乙女光くんのビジュアルがJr.時代からあまりにも変わっていないことが気になりすぎてヤバい。






マッドマックス怒りのデス・ロードをゴリ押しする記事

わたしは今猛烈に後悔している


どうしてマッドマックスを劇場で観なかったのか











ついこの前マッドマックス怒りのデス・ロードがWOWOWで放送され、映画オタクの弟によって録画されたそれを半ば強制的に弟に見せられたのだがんまーーーー面白いわこれこりゃアカデミー獲るわな


簡単に言うと、
砂漠を爆走するデカい乗り物、生きるか死ぬかのデスレース、白塗りの兵士、爆破、砂嵐、奪い合いその他諸々の映画だ。
作品のうち8割方は砂漠を爆走している。爆走しながらドンパチしているのだ。見ててチョー疲れる。むしろ止まってる時間がほとんどない。すごくない?
しかもこんなクレイジーな映画撮った監督ヨボヨボのおじいさんらしい(弟談)。まじで?

まずこの要素を見て好きな世界観だったら見て損はないマジ





でも本作を男の映画、むさ苦しくて暑苦しいだけのどんぱちモノと敬遠してる人も多いと思うのだが、わたしも実際見るまでそうだったのだが、わたしとしては普段むさい映画を見ない女性でも十分楽しめる映画だったと思う。




まず、マッドマックスと聞いてこのポスター
f:id:edogawamy:20160502003514j:image
を見れば

多分立ってるのがマックスで主人公なんやろな〜〜そんで下にいるのが相棒やろな〜〜

と思うのが順当だと思うが実際内容は下にいるのがメインと言っても過言ではない。

マッドマックスは本作を皮切りに三部作になるそうなので(弟談)マックスが主人公なのには違いないのだが、本作はマジで下にいるフュリオサがメッチャかっこいいのだ。

男の相棒、助手的な女ではなく主人公である男すらを率いて先頭に立つ女フュリオサはわたしの心の中の女が抱いて!!!!とのたうちまわる位にはサイコーかっこいいのだ。坊主頭なのにサイコーに美人でヤバいかっこいいのだ。




ある意味一切の女らしさを捨てたフュリオサと対照的に存在するのがワイブズと呼ばれる女達なのだがこれもまたサイコーなのである。


まず全員破壊的に美人

金髪色白や赤毛、ショートヘア、黒髪ともうどの顔がタイプですかゲームをすれば確実に世の男はこの中から1人選ぶと神に誓うレベルで確信できる美女のディバーシティ

目の保養である

フュリオサと対照的と言ったが彼女らもストーリーの中で守られるだけの存在から脱却していく

正直マックスは主軸にはいるがわたしとしてはフュリオサとワイブズの躍進がマックスの記憶をうっすらさせる程度には強烈に面白く感じた。


この映画はとにかく女がかっこいい。めちゃくちゃハードなチャーリーズエンジェル的な感じではと思う(チャーリーズエンジェル見たことない)。

予告や宣伝からグロいのではと思ってる人も多そうだが、確かに人は死ぬがブシャーとかベキャーとかブチーとかいうのは映らないので相当無理な人以外は普通に見れると思う。

よくある人を量産的に殺して殺し方の凄惨性の狂気だけが押し売られている作品とは違って、この映画はちゃんとした死生観が作品中にあるのでわたしが見た感じでは嫌悪感もほとんど無かった。

これほどまでにこの映画をゴリ押しするのは、わたしはマッドマックスをみんなに見て欲しい。ただそれだけなのだ。 
おそ松さんでもパロられてました、マッドマックス見たらおそ松もまた楽しめるよ、ねえ、見よう!見よう!!!!!!!!!

時間が二時間あって暇なら見よう!わたしも隣で付き合います!






また別ページでネタバレ含んだマッドマックスの感想とか思ったこと書きます

キンプリ初回鑑賞に通常上映ぼっち鑑賞を勧める記事







わたしの住む某田舎はまだキンプリを上映しているのですが、内半分以上が応援上映という飛ばしっぷり(〇〇〇館さん大好き)





よくキンプリはシャブだの麻薬だのマリファナだのに例えられる。とてもわかる。




まだ見ていない人にそのキンプリのシャブっぷりをより体感していただきたい、という熱い思いで書きます






キンプリがなぜシャブなのか?





わたしが初めてキンプリを見たときその衝撃は半端なかった。その衝撃がどこから来たのか考えてみた。




一言に集約すると、置いていかれる快感だと考える




キンプリの特徴はとにかく展開が早い。回想そこで入れる??みたいなかなり攻めた展開の速さだ。回想に入る前に一言もくれない。初見では大混乱である。突然ライブ中にチャリに乗ったりする。

そしてプリズムショーのぶっ飛び具合。なんかもうすごい。オバちゃんの脳着いてけない。

とにかく情報が雪崩のごとく襲ってきて脳内を支配するのだ。 


しかし完全に置いていかれてしまうわけではない。シン君というプリズムショー初心者の主人公のおかげでなんとか段取りを踏みながら話を理解していくことができる。


序盤ただただその世界観に圧倒されながらもシン君のおかげで話を理解しつつ怒涛の展開の速さに身をまかせるしかない快感とでも言いましょうか。
常に想像の遥か先を行く展開とスピードの速さにキンプリという世界に飲み込まれていく自分を感じることができるのです。




この独特の世界観と展開の速さ、そして加わる中毒性の高い音楽(小室哲哉大先生)、突っ込んでいいのかわからない数多の小ネタ、さながら本物のライブ会場に居るような気になるプリズムショーがわたしの映画概念をずぶずぶと犯していきいつのまにかエンドロールになってぼんやりしてきて場内が明るくなった頃に「なんや…プリズムショー最高やないか…」という満足感が全身を支配する








まことに麻薬である









そして題にもある、まだ見ていないけどシャブみを感じたいあなたに初回鑑賞で通常上映ぼっち鑑賞をオススメする理由



置いていかれる快感を感じるためには通常上映ぼっち鑑賞がナンバーワンだと感じたからだ。





わたしとしてはシャブみの観点から見ると応援上映よりも通常上映の方がより頭がクラクラすると感じた


その理由が、応援上映では応援で混乱を和らげることができるからだ。



通常上映をぼっちで鑑賞した場合、キンプリに対する混乱を1人で処理していくしかない。

しかし応援上映では観客の皆様の応援が自身を安心させてくれるのだ。


突っ込んでよかったのかわからなかった小ネタへの掛け声やイージードゥダンスでのFo!が、ここがどういう世界なのかを示してくれるのだ。
わたしはもしやとんでもないものを観ているのでは?大丈夫か?という混乱に
「ここはキンプリというニューワールドです!」と応援上映では観客の皆様に返事を返してもらえる


わたしは応援上映鑑賞時に度々、あの小ネタ突っ込んでよかったんだ!と見ながら納得しながらも安心していた



応援上映での声は1人孤独に混乱しながらキンプリという映画の世界に飲み込まれてしまうのを助けてくれるのだ。





キンプリとはとても素晴らしい作品だ。
まずストーリーがいい。
ダンスもいい。
キャラクターもいい。
歌もいい。
完璧である。




しかしシャブみの観点からすると、混乱も一つの大きな魅力だと考える。




初回鑑賞ではその混乱に身をまかせて置いていかれる快感を味わってみるのも一興であると考える。




応援上映の魅力はなんと言っても楽しいに尽きる。キンプリに参加するという方向から脳が支配されていく快感を味わうことができる。

通常上映と違う点では、応援上映はキンプリという世界を理解した上での声援が必要だ。

嫌いな食べ物にトマトと答えたり鞭をパシンパシンする時にキンブレで一緒にパシンパシンしたりは初見ではできないだろう。









そこでわたしはキンプリを鑑賞するにあたってのスリーステップを提唱したい。





まず、一回目は通常上映をぼっち鑑賞
混乱と置いていかれる自分を感じながらキンプリという世界に飲み込まれていく快感を味わっていただく




次に二回目は応援上映
突っ込んでよかったところとノリ方を見て初回の混乱を答えあわせのように埋めて楽しむ




そして三回目以降で本格参加応援上映
ここまで来ればあなたはキンプリマスター。嫌いな食べ物を元気に答えましょう


ここまで来ればキンプリが脳を完全に支配しています。その快感に溺れながら次回いつ鑑賞するかの計画をたてましょう








そしてわたしは明日にでもキンプリを観に劇場に足を運ぶ計画です












キンプリを見てきたけどとんでもなかった






開始直後に、わたしとんでもないもの見てる、と自覚しました。








言わずと知れたど田舎でも遂に上映ということで今日は朝から噂のヤバい映画が地元で見れる幸せを噛み締めてましたが、半分近く応援上映で最初は通常上映で見ようと心に決めていたわたしはバイトの一時間半休憩で映画館にダッシュし開始五分前に滑り込み通常上映の鑑賞に成功しました。奇跡。



ほぼ前知識無しで行った通常上映ほんとマジでマジハンパなかった 



正直まだ混乱。上映後なんかボンヤリ気づいたら近くのモスにいました。





わたしはキンプリの深すぎる沼を知ってしまった。戻れない。こわい。







わたしが事前に知っていたキンプリ前知識は、
・なんかスケートみたいなので踊るアイドル
・「はい、ソフトクリーム、あーん」
・カヅキくんドチャクソタイプ
・尻からハチミツ
程度でニワカ全開で行ったにもかかわらず今わたしは沼の底にいます。麻薬でした。

あと本当に尻からハチミツでした。





なんかもう今更ネタバレもクソもないと思うのですが一応これから見る人は注意










上映五分前に滑り込みダッシュの疲れからグッタリしてたらいつの間にか時間になりスタッフさん登場。
タイトルの確認かと思いきや




「今回は通常上映となりますので、声援はグッとこらえてください」




グッとこらえてください…こらえる…
こらえなきゃいけないレベルで声援したくなるのか…


この時点で若干怯える私をよそに周りから小さく聞こえるウフフフという上品な笑い声とお客さん達の和やかな空気…
この時わたしは気づいたヤバいところに来てしまったと


そんな心配を他所に上映開始



CM終了後始まるかと思いきや突然黒い厳つい男ゴリラくんが謎に語りだす



なんかまだ上映してんのかとか若干ディスってくる。第一印象悪いぞお前。

しかもわたしが唯一名前知ってるカヅキ君にも喧嘩売ってんじゃねーかてめえ第一印象悪いぞお前


しかしその後弾丸のような展開の速さで何故か女装するゴリラくん

ちょっとかわいい



いやいや




なんやねんこれ








気づいたら総選挙とやらのVが始まり男の子がなんかしゃべってる

なんだこの長い決め台詞みたいな言葉…全然わかんねえ…

2人目もなんか同じような感じの不思議な必殺技みたいなの言ってる…でもこの茶髪メガネかわいいわ…


3人目でようやく確信これなんかの必殺技ですね?見てたらわかるやつですね???なんかキャラメリーゼみたいなこと言ってるけどパティシエさんかな?






混乱を他所に始まる本編

突然のライブ


頭大混乱



なんなんだこれは…スケート靴履いてる…すげえヌルヌル動く…1人ギター持ってる…ギター弾きながらスケート…?もうわけわからん…

しかも推しのカヅキ君めっちゃブレイキンしてるやん…氷に手ついて冷たくないんか…




そして主人公らしき少年登場



青髪に赤目ってキャラ濃すぎでは???


しかしこのライブ席とかないんやな…あと声援がリアル…すげえ…




そして謎にライブ中にチャリで二ケツ




なんなんだなんなんだもうわからない
そして「はい、ソフトクリーム、あーん」!!知ってる!!これ知ってるぞ!!!でもこんなライブの最中に出てくるとは知らなかったぞ!!!!!!



そしてチャリで空を飛ぶアイドル達



E.T.かな?????


チャリのくだりから突然ライブ映像に戻りわたし大混乱






ヤバい、こんな調子でわたし一時間まともでいられるのか?との不安がよぎり決意



頭の中でつっこむのはもうやめよう




そう思った瞬間一時間は一瞬におわりました









もうほんと言い表せない、
なんやかんやでなんか主人公がエーデルローズに入りなんやかんやでオバレが危機になりなんやかんやでイージードゥダンス、なんやかんやで主人公のお披露目、もうなんやかんやヤバい


このなんやかんやの間にチャリで空飛んだり蒼井翔太くんがアハハウフフスキップしたり尻からハチミツ出したり全裸分身したりもうこの映画はなんやかんやに全てが集約されてる


この感情を上手く伝えられないのが悔しすぎてつらすぎるヤバい


初っ端でてきたゴリラくんことアレクサンダーくんとカヅキ君のイージードゥダンスが頭から離れない


あんたらストリート云々言うてたけど自分らやってるダンスガールズじゃね?????とかいう疑問はもう見てる時は頭にないわけですよ、



イージードゥダンス!イージードゥダンス!
踊る君をみてる!
イージードゥダンス!イージードゥダンス!
君だけを見ている!Fo!




腹筋で剣を遮り!龍を召喚!怒涛のウィンドミル


すごい!すごいぞ!!ババア興奮してきた!すげえ!!!!

小室哲哉天才!!!!!!!!!









そして終盤のオバレのショー、バラードなのにめっちゃ踊るやん…ヌルヌル踊るやん…ギリシャ



オバレショーあとのファンの声もリアルでヤバい、こっちも悲しくなっちゃうやつやん…






そしてここで主人公のショーが始まるわけですやん?
もうすんばらしいやん?

シン君サイコーだよ…!笑顔!サイコーだよ!輝いてるよ!!!

なんなんだこの高揚感、これが、これがプリズムショーなのか、プリズムショーなのか!
プリズムショーサイコー!きみがプリズムスタァだ!サイコー!!!!





そんなこんなで気づいたらエンドロール、ユキノジョウさんたちのプリズムショーは…なぜないのです…なぜ…という負の思いをエンディング曲が一瞬で掻っ攫う



めっっっっっっっっちゃいい曲やーーーーーん



えー、めっちゃいい曲やんなんか感動してきた、CDほしい、もうこれ箱推しだわ、完全に箱推しだわ、
はーーすんごい満足感、ありがとうオバレ、ありがとうシン君、ありがとうエーデルローズ、合掌。


そんな幸せ感に拳ぶち込んでくる次回予告

なんやなんや蒼井翔太くん、人の歌はアカンで!歌うっま!うっま!!!!あかんあかん、うっっっっっっっっま!!!!!!
なにこれ続くの?続編あるの?いくしかない?ない!あるの!?!?!!?!?!?ねえ??!?いえ!!!!!あると言え!!!!!!!!!!!!

映画館を去って六時間ほどしか経ってないのにババアすでにシャブ切れのような状態

わたしあと二回は確実に見に行きます。

誰かババアに応援上映に行く勇気をください。

誰か一緒に行こうお願い。


キンプリほんとババアの脳には衝撃的すぎた

ありがとうキンプリ

ありがとうエーデルローズ

ありがとうプリズムショー

ありがとうプリズムスタ