見境ないオタク

アニオタ・ドルオタ・腐女子という三重苦と共に生きています

キンプリを見てきたけどとんでもなかった






開始直後に、わたしとんでもないもの見てる、と自覚しました。








言わずと知れたど田舎でも遂に上映ということで今日は朝から噂のヤバい映画が地元で見れる幸せを噛み締めてましたが、半分近く応援上映で最初は通常上映で見ようと心に決めていたわたしはバイトの一時間半休憩で映画館にダッシュし開始五分前に滑り込み通常上映の鑑賞に成功しました。奇跡。



ほぼ前知識無しで行った通常上映ほんとマジでマジハンパなかった 



正直まだ混乱。上映後なんかボンヤリ気づいたら近くのモスにいました。





わたしはキンプリの深すぎる沼を知ってしまった。戻れない。こわい。







わたしが事前に知っていたキンプリ前知識は、
・なんかスケートみたいなので踊るアイドル
・「はい、ソフトクリーム、あーん」
・カヅキくんドチャクソタイプ
・尻からハチミツ
程度でニワカ全開で行ったにもかかわらず今わたしは沼の底にいます。麻薬でした。

あと本当に尻からハチミツでした。





なんかもう今更ネタバレもクソもないと思うのですが一応これから見る人は注意










上映五分前に滑り込みダッシュの疲れからグッタリしてたらいつの間にか時間になりスタッフさん登場。
タイトルの確認かと思いきや




「今回は通常上映となりますので、声援はグッとこらえてください」




グッとこらえてください…こらえる…
こらえなきゃいけないレベルで声援したくなるのか…


この時点で若干怯える私をよそに周りから小さく聞こえるウフフフという上品な笑い声とお客さん達の和やかな空気…
この時わたしは気づいたヤバいところに来てしまったと


そんな心配を他所に上映開始



CM終了後始まるかと思いきや突然黒い厳つい男ゴリラくんが謎に語りだす



なんかまだ上映してんのかとか若干ディスってくる。第一印象悪いぞお前。

しかもわたしが唯一名前知ってるカヅキ君にも喧嘩売ってんじゃねーかてめえ第一印象悪いぞお前


しかしその後弾丸のような展開の速さで何故か女装するゴリラくん

ちょっとかわいい



いやいや




なんやねんこれ








気づいたら総選挙とやらのVが始まり男の子がなんかしゃべってる

なんだこの長い決め台詞みたいな言葉…全然わかんねえ…

2人目もなんか同じような感じの不思議な必殺技みたいなの言ってる…でもこの茶髪メガネかわいいわ…


3人目でようやく確信これなんかの必殺技ですね?見てたらわかるやつですね???なんかキャラメリーゼみたいなこと言ってるけどパティシエさんかな?






混乱を他所に始まる本編

突然のライブ


頭大混乱



なんなんだこれは…スケート靴履いてる…すげえヌルヌル動く…1人ギター持ってる…ギター弾きながらスケート…?もうわけわからん…

しかも推しのカヅキ君めっちゃブレイキンしてるやん…氷に手ついて冷たくないんか…




そして主人公らしき少年登場



青髪に赤目ってキャラ濃すぎでは???


しかしこのライブ席とかないんやな…あと声援がリアル…すげえ…




そして謎にライブ中にチャリで二ケツ




なんなんだなんなんだもうわからない
そして「はい、ソフトクリーム、あーん」!!知ってる!!これ知ってるぞ!!!でもこんなライブの最中に出てくるとは知らなかったぞ!!!!!!



そしてチャリで空を飛ぶアイドル達



E.T.かな?????


チャリのくだりから突然ライブ映像に戻りわたし大混乱






ヤバい、こんな調子でわたし一時間まともでいられるのか?との不安がよぎり決意



頭の中でつっこむのはもうやめよう




そう思った瞬間一時間は一瞬におわりました









もうほんと言い表せない、
なんやかんやでなんか主人公がエーデルローズに入りなんやかんやでオバレが危機になりなんやかんやでイージードゥダンス、なんやかんやで主人公のお披露目、もうなんやかんやヤバい


このなんやかんやの間にチャリで空飛んだり蒼井翔太くんがアハハウフフスキップしたり尻からハチミツ出したり全裸分身したりもうこの映画はなんやかんやに全てが集約されてる


この感情を上手く伝えられないのが悔しすぎてつらすぎるヤバい


初っ端でてきたゴリラくんことアレクサンダーくんとカヅキ君のイージードゥダンスが頭から離れない


あんたらストリート云々言うてたけど自分らやってるダンスガールズじゃね?????とかいう疑問はもう見てる時は頭にないわけですよ、



イージードゥダンス!イージードゥダンス!
踊る君をみてる!
イージードゥダンス!イージードゥダンス!
君だけを見ている!Fo!




腹筋で剣を遮り!龍を召喚!怒涛のウィンドミル


すごい!すごいぞ!!ババア興奮してきた!すげえ!!!!

小室哲哉天才!!!!!!!!!









そして終盤のオバレのショー、バラードなのにめっちゃ踊るやん…ヌルヌル踊るやん…ギリシャ



オバレショーあとのファンの声もリアルでヤバい、こっちも悲しくなっちゃうやつやん…






そしてここで主人公のショーが始まるわけですやん?
もうすんばらしいやん?

シン君サイコーだよ…!笑顔!サイコーだよ!輝いてるよ!!!

なんなんだこの高揚感、これが、これがプリズムショーなのか、プリズムショーなのか!
プリズムショーサイコー!きみがプリズムスタァだ!サイコー!!!!





そんなこんなで気づいたらエンドロール、ユキノジョウさんたちのプリズムショーは…なぜないのです…なぜ…という負の思いをエンディング曲が一瞬で掻っ攫う



めっっっっっっっっちゃいい曲やーーーーーん



えー、めっちゃいい曲やんなんか感動してきた、CDほしい、もうこれ箱推しだわ、完全に箱推しだわ、
はーーすんごい満足感、ありがとうオバレ、ありがとうシン君、ありがとうエーデルローズ、合掌。


そんな幸せ感に拳ぶち込んでくる次回予告

なんやなんや蒼井翔太くん、人の歌はアカンで!歌うっま!うっま!!!!あかんあかん、うっっっっっっっっま!!!!!!
なにこれ続くの?続編あるの?いくしかない?ない!あるの!?!?!!?!?!?ねえ??!?いえ!!!!!あると言え!!!!!!!!!!!!

映画館を去って六時間ほどしか経ってないのにババアすでにシャブ切れのような状態

わたしあと二回は確実に見に行きます。

誰かババアに応援上映に行く勇気をください。

誰か一緒に行こうお願い。


キンプリほんとババアの脳には衝撃的すぎた

ありがとうキンプリ

ありがとうエーデルローズ

ありがとうプリズムショー

ありがとうプリズムスタ









ジャニーズ(Hey!Say!JUMP)で見るアイドルの未完成性から来る沼について







アイドルとは私を捉えて離さない恐ろしい存在である

昨今の音楽番組でジャニーズしかりAKBしかりが出ていない回は殆どないと言ってもいいくらいには日本に根付いたアイドル文化

三重苦クソオタクを名乗るわたしも三重苦の一つにドルオタを含んでいる

今回はなぜアイドルが私の心を掴んで離さないのかという問題を散らかしながら自己分析的に悶々としていきたい。


そもそも私の根本にドルオタの血がこんこんと流れている件に関しては以前ご紹介させていただいたがそんな私にも一時期アイドルから離れる時期があった。
私のオタク史を超大雑把に書くとドルオタ→アニオタ→ドルオタとなるので私をアイドルから遠ざけたのはアニメ、と言いたいところだが実際はノンノンである。


その頃私は絶讃J-POP、殊にバンド大好き女だった。
なんか自分でもよくわからないがあの頃の私はバンドに肩入れした途端アイドルから距離を置きたくなった。なんか東京事変好きとか言っておきながらジャニーズ好きとかおかしくね?本当は面食いミーハー野郎の癖にバンドとか聞いてるやばい奴じゃね?というそもそも自分の本質の面食いミーハー野郎を何故か恥とし真にアホで別に誰もお前の趣味にそんな興味もってねーーーーーよ!と言わんばかりの自意識を発動させた結果、表でアイドルの事を言うのはやめた時期があった。これが俗に言う中二病なのでしょうか…
でもまあずっと一人で本屋に行って某アイドル誌立ち読みしてはニヤニヤ。気持ち悪いね。

この頃の自分の心境は今思えば完成されたものに対する信仰心、未完成なものを好むことを周りに知られたくない背伸びした感情みたいなものからも来ていたような気がする。

私が知る限りだが、アイドルを愛すると同様にその他のアーティストの音楽を愛する人は中々見かけない。ここで強調したいのはあくまで「同様」である。「同等」ではない。







私が今回注目するのはアイドルの「未完成性」である。








ここではアイドルの例としてHey!Say!JUMP(以下ジャンプ)、その他のアーティスト、バンドとして東京事変を挙げていく。(私が特に大好きだから)

アイドルと他アーティストを応援するにあたって私自身の傾向から言うと

私が東京事変にハマったのは単に椎名林檎の声が好きで、曲が好きで、顔が好きで、本当にそれに尽きた。私にとって東京事変という存在は隙なく完成されていた。東京事変の「現在」を常に追い続けることを楽しんだ。




対してアイドル、ジャンプに関しては少し異なる。
勿論顔は100点である。歌もサイコー!大好き!しかし私の中で彼らは何故か親近感を持たせる。
その理由はジャニーズJr.という期間から来ているのではないか。


ジャニーズJr.とはいわば芸能人と一般人の境ではないだろうか。


ついこの前まで一般人だったジャニーズJr.達は選り好みされデビュー組のバックやドル誌の誌面に登場する。
芸能人としての彼らが完成していく過程をオフィシャルに見ることができるシステムがあるのだ。
1人でテレビに出すまでは行かなくてもデビュー組のバックなら、ドル誌という場所なら表に出ることができるという環境がある。
そして忘れてはいけないのが、いくら芸能人と一般人の境とはいえ私たちの目に触れるジャニーズJr.達は選りすぐりのエリートであるという点である。
諸説ありソースも不確かだが一説ではジャニーズJr.の数は千近くとまでも言われる
そのような中からいわば選ばれた者のみが私たちにジャニーズJr.として認識されているのである。

ジャニーズJr.とは一般人と芸能人の中間であり、同時にジャニーさんという千里眼に選ばれた凄まじく光り輝く原石であることが証明された存在なのである。

そしてそのような原石達がユニット結成、持ち歌の獲得、舞台出演などを経て一つの通過点であり結果でもあるCDデビューを勝ち取るまでの経緯を私たちファンは様々な媒体を通して応援しピギャりつつ見守り続ける。



そこで芸能人として「未完成」な彼らを応援し続け、愛するファンは、彼らの「保護者」的視点を得るのではないか。



出たての頃から見てたけどだんだん伸びてきた!すごい!やっぱり想像した通り!ほんともういい感じに成長して!ダンスも上手くなったし!やっぱりね!こんなに成長して私すごく嬉しい!!!!的感情が湧いてくる。
もはや私は彼らのお母さんである。息子の成長を信じるお母さんである。







大前提としてアイドルは「商品」であり、私たちファンは「消費者」だ。


決して彼ら、彼女らの人権を否定しアイドルをモノとして扱うわけではない。彼ら彼女らアイドルが、アイドルであることを「職業」としている以上、事務所にアイドルである自身を契約している以上、事実アイドルは存在自体が「商品」だ。
そしてそのアイドルを求めて書籍なり映像なりチケットにお金を出す私たちはいわば「消費者」だ。

この「消費者」という立場に、新たに未完成な彼らを見守ってきた「保護者」という視点を付け加える要素になり得るのが公に出されるジャニーズJr.なのである。



ジャニーズJr.に対する「保護者」的心理は彼らがデビューを果たし、ひとまず一人前となっても消えることはない。お母さんは息子が独り立ちしてもいつまでたっても息子が気がかりなのだ。大好きだから誇らしくもあり気がかりなのだ。




私を彼らのお母さんにしてしまうシステムにジャニーズ事務所という組織も大きく影響しているのではないか。

芸能界の中でも芸能人の総称を事務所で印象付けているのはジャニーズと吉本くらいだろう。
それ程ジャニーズという一団は世間一般に認識されている。


そしてそのジャニーズ事務所が抱える数多くのタレント達の活動範囲はメッチャ広い

バラエティーから演技まで幅広くこなすSMAP、農家兼バンドのTOKIO、舞台やアーティストとしてのKinKi Kids、国民的アイドルと言っても過言ではない嵐、個人で俳優として活動する生田斗真など多くの先輩がジャニーズ事務所には所属している。

この「先輩グループ」達はもちろんジャニーズJr.や若手グループにとっては目標としての役割を果たしていると思うのだが、私を含むファンにはどのように働いているのか。

若手グループを応援するファンにとってのグループへの期待と展望がイメージしやすくなる働きがあるのではないかと考える。



同じ事務所のグループが各環境で成功を収めていれば次世代にも同じように先輩達が拓いた環境での活躍、また新しい環境の開拓を想像しやすいのではないか。成長し続ける先輩グループの存在が若手グループへの期待に繋がり、応援することを辞められない仕組みに繋がっているのではないかと考える。沼である。

そしてここで「保護者」的心理が働く。若手グループに先輩達のように成長して欲しい反面、いつまでも自分の中の息子でいて欲しくなる。




昨今騒がれている「伊野尾革命」という言葉をご存知だろうか。ジャンプのメンバーである伊野尾慧という人物が突然爆発的と言ってもいいほどの注目を集め始めた件を指す。

大学生だったこともあり、ポジションも後方で露出も少なかった伊野尾慧が突如バラエティーを中心に露出が増え、単独でMCを勝ち取るにまで至った。

この「伊野尾革命」をツイッターで検索すると様々な意見が見られる。

大きく分けると単純に伊野尾慧の数多の抜擢を喜び「伊野尾革命」を喜ぶ人達とそうでない人達だ。

そうでない人達の分類はとても難しく、ほんの一部挙げると
・伊野尾慧の露骨とも取れる数多の抜擢がちょっと喜ばしくない
・伊野尾慧の今までの努力を思うと革命の一言で済まさないで欲しい
・伊野尾革命はもうお腹いっぱいだから岡本革命は?

などといった具合で様々である。

この現象は「保護者」的心理の影響でもあるのではないか?と私は思う。
不遇とも言える環境の中ずっと見守ってきた息子が突如脚光を浴び、ある日を境に突然「みんなの伊野尾慧」になってしまったことに対する困惑から来ているのではないか。
この心境は不遇時代を支え抜き長年応援し続ければし続ける長年のファン程増すのではないかと私は考える。


そしてこれらの思いは伊野尾慧、彼に対する「未完成性」への欲求ではないか。



後ろでニコニコして一言も喋らないまま終わる彼や、山田涼介の肘に顔面を隠されてもニコニコしている彼、決して表には出ないけれど私だけが知っている(と自分では思ってる)大好きな彼の存在をみんなに知られてしまった!嬉しいけどちょっと待って!気持ちの整理が!待って!嬉しいけども!!みたいな感情と同時に心のどこかでちょっと不遇な彼をもう少しだけ応援していたかった、という気持ちが湧いてくる。もう少しだけがんばれ!がんばれ!と声を大にして応援していたかった。


未完成なものは魅力的である。これからどんな風に成長してどんな形の完成形となっていくのか。期待を無限にかけることができる。


私はここで応援という言葉を多く使うが、この応援という心境もアイドルに対する特徴的な感情だと考える。

彼ら、彼女らは「応援」して支えなくてはならない。CD買ってランキングに乗ったら私も嬉しいしアイドルもきっと嬉しい。だからCD買おう。私のアイドルに対する行動は紆余曲折を経てアイドル達の支えになっているはず。私はそう思い「応援」する。

そもそもアイドルは支えられていなくてはいけないのか?私が愛するジャンプは私の支えが必要なのか?そう聞かれればハイとは言えない。私1人がファンを辞めたところで彼らは痛くもかゆくもない。辞めませんけど。
でも私が彼らに貢献できている、と思わせるのは彼らの「未完成性」が働いているからではないか。

私が買ったこのCDが、彼らの今後のご活躍への一兆分の一程度の貢献に繋がるのでは
、と考えることができるのは、彼らが「未完成」であるからである。過去と現在の彼らを愛し、今投資をすることでまた未来の彼らに期待をかける。未来に期待するためには現在が「未完成」である必要があるのだ。

つまり、いつまでも未完成であれば私たちは応援を辞められないのだ。
未完成と成長が見られないのは全く別である。成長し続けて尚未完成である必要がある。



この構図を助けるのが先程挙げた「先輩グループ」だ。
若手グループが成長し続けても前には同じく成長し続ける先輩グループが常に存在する。

ジャンプが進化し続けると同時に進化し続ける嵐、TOKIOKinKi Kidsタッキー&翼諸々がそれぞれの場所で常に先駆者として走っているのだ。
この先輩グループの存在が、若手グループの「未完成性」を保たせているのではないか。
先輩グループとして挙げた彼らにももちろん更に上はいるだろう。この先輩後輩の連鎖がグループの「未完成性」を保たせ、ファンの定着にも影響を与えているのではないだろうか。
そしてこの構図が成立するのは、ジャニーズ事務所というある意味孤立し、ブランド化された団体の強固な縦の繋がりが存在し、それをファンも認識しているからこそである。


ジャニーズ以外のアイドルの未完成性への欲求については、AKBグループの研修生・卒業制度や地下劇場の存在、ローカルアイドルなど多くの場で見ることができる。

アイドルという存在に対して「消費者」である私に、「保護者」的心理が加わることで抜けられない、抜ける気すらしない沼が生まれる。




長々しく自分のドルオタとしての心境と向き合って悶々とした結果結局この感情に答えは出なかったがもうこれだけは言える私はジャンプちゃん達を未来永劫フォーエバーずっと見守っていきたいです!!!!!!!!!!!!!!!

あとiPhoneは早く予測変換でHey!Say!JUMPって出るようにしてください!!!!!!!!!!!





セーラー服と機関銃、時をかける少女はなぜ女学生が主人公なのか

⚠︎このブログは私の勝手な推論かつ思い込みのみで構成されているので根拠も何もありません




赤川次郎セーラー服と機関銃

筒井康隆時をかける少女

といえば、どの世代でもほとんどの人が大体の内容が分かる位には有名である。

セーラー服と機関銃 (角川文庫)

セーラー服と機関銃 (角川文庫)


時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)

時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)


内容も作者も異なる二つの作品の共通点を挙げるとすると、「女学生」が「非日常」的な体験をするといったところだ。


そもそもなぜこの記事を書くに至ったかというと、この2作について少し話す機会があり、「この2作はなぜ長く人々に読まれているのか」という話題になったから。

その時ちょっと思うところあり、それを今回消費したい。


そもそも一回目なので少し私の傾向について書くと、早い話オタクである(オタクという括りについて色々な考えがあるがここでは深く触れない)。

しかも少々質が悪くオタクというカテゴリーにおいて今思えば雑食にも程がある過程を経ており、簡潔に表すと小学生から現在までの嗜好の流れは

アイドル→アイドル夢女子→声優→アニメ→アニメ夢女子→ホモ百合→アイドル

とまるで終わらないメビウスの輪の上にいるような堕落っぷりで現在は全ての沼に満遍なく五体投地という御察しの状況である。


つまりここでは上記の私が経てきたオタク的視点を以って書いていきたい。


長くなったのでもう一度今回の内容を書いておくと、「オタク的視点で見る『セーラー服と機関銃』『時をかける少女』の共通項と魅力」といったところです。



前にも書いたように『セーラー服と機関銃』と『時をかける少女』の共通点を挙げるとすると大きく二つ、「女学生」が「非日常」的な体験をするという点ではないだろうか。

この2作は作品発表から現在までの間に何度もメディア化している。時代が変わっていく中でこの2作がメディア化され続けるのは何故か。ここでは二つ挙げていく。





考えられる一つ目の要因は、その時代のトレンド女優を起用しやすいということ。

この考えは配給側の都合の問題が大きく関わるのであまり面白くはないが一応書く。


主人公が女学生という点に注目した結果の要因がこれであり、今更書く程のことでもないが早い話「今人気の女優でイッパツ当てたいので絶対コケない話」を求めるとこの2作に行き着く、という予想だ。赤川次郎筒井康隆で大きくコケる方が難しいのではないか。うまい話だと思う。橋本環奈ちゃんで『セーラー服と機関銃』を映画化するらしい。とても見たい。





では二つ目の要因。簡単に言うとこの2作は女の心をがっちり掴む、ということ。今回のメインである。

この論はあくまで女性が読者、視聴者という前提で進める。そしてここでついに私のオタクライフが関わってきます。

2作の共通点として挙げた「女学生」と「非日常」、察しのいい方ならお気づきでしょうが、夢小説・ドリーム小説によくある設定である。簡単に夢小説について説明すると、

主人公=自分とアニメキャラ・芸能人の小説である。小説といっても大体は主人公=自分がアニメキャラや芸能人と恋仲になるとかいうもので、かつて私も読み漁り書き漁った。というか今でも読める。久々に読みたい。


そんなうまい話あるわけないじゃないか、という方も居るかもしれない。そもそもアニメキャラなんか住んでる次元違うじゃねーか。

そこで力を発揮するのが、「非日常」である。そう、ご存知「異世界トリップ」設定である。私はこの設定を最初に考えた人に口座番号を教えたい位感謝している。私たちに夢を与えてくれてありがとう。


異世界トリップ設定とは、読んで字のごとく異世界にトリップする設定である。つまり自分が二次元にワープするといった感じである。そのワープ方法は筆者によって様々で、ポピュラーなものを挙げると

・朝目が覚めたら知らない天井が見えるタイプ

・不慮の事故で死亡し気付いたら異世界タイプ

・作品が好き過ぎて念じまくったら異世界タイプ

といったところだろうか。

主人公の特性も様々で、作品の前知識を持って異世界トリップする場合や、何も知らない状態で訳も分からず知らない世界に異世界トリップする場合などバリエーションは無限大にある。

女子たちはこの異世界トリップ夢小説をもってすれば、二次元に行くことも可能なのだ。女子たちは夢小説を読むことで普段体験できない「非日常」を疑似体験できるのだ。アイドル夢小説でもほぼ同じことが言える。突然芸能人と知り合ってただの一般人である自分がイケメンに口説かれるなんてとんでもファンタジーにもほどがあります(幼馴染設定等を除く)。これも「非日常」でしょう。  


そしてもう一つのネックである「女学生」だが、大体の夢小説における主人公の設定は「女学生」と言ってもいいだろう。これは読者層・作者層が学生が多いことも大きく関係するだろうが、一つ看過できないこととして、「学生を終えた人も女学生の設定を受け入れることができる」という点があると考える。これは完全に私の経験からなので一般論ではないが、そこまで見当はずれではないと思いたい。例えるなら、主人公設定が中学生だとしても高校生の自分を投影できる、といったところだ。少なくとも私はできた。女はいくつになっても夢見る少女なのだ。自分の年齢操作程度容易い。 


「女学生」は青春の象徴であり、ほとんどの女性たちが経験してきた身分である。そして今回の2作の読者層には当てはまらないかもしれないがそれ以前の世代、例えば幼稚園児・小学生などからすると、「女学生」はいずれ自分も通る道である。つまり、「女学生」は女性であれば誰でも自分を投影しやすい設定といえる。


課題に追われている、気にくわない教師に目をつけられた、単位が取れない、仕事が終わらない、このような投げ出したい現実からちょっと目を背けたい時に、「非日常」的な体験をする「女学生」という設定はうってつけではないか。






今回話題にする2作に立ち返る。

そもそもこの2作は夢小説のような視点で読まずとも(例えば男性が読んでも)十分に面白い作品といえるだろう。だが、長年読み続けられ、何度も映像化される鍵として、やはり「女学生」と「非日常」は無視できないと考える。夢小説は主人公の名前を自分の名前に変更することでより小説と自己の一体感を演出するが、この2作は主人公の疑似体験に加えて読み手の憧れを主人公に反映する読みも可能であると考える。

 


そしてここでメディアミックスについて。前にも書いたが『セーラー服と機関銃』と『時をかける少女』は作品発表から現在までの間に複数回映像化されている。

しかし、全く同じ内容でリメイクされているのではなく、主人公の性格、時代に合わせて携帯電話などを投入するなど、見る側の時代に添った細かい改変が見られる。なぜそのようなことをするのか。リメイクするからといって必ずしも時代まで合わせることはない。そこにはやはり視聴者・読み手を登場人物・作中に投影させるための工夫が見られると考える。

何度も映像化されるこの2作は、女はいつまでたっても夢見る少女、という心理をうまく掴んだ作品といえるのではないか。




ここまで長々と書いたがつまり言いたいのはこの2作とっても面白いということである。



結局まとまらなかったが、メモ書きのようなものなのでこれにて以上