見境ないオタク

アニオタ・ドルオタ・腐女子という三重苦と共に生きています

ハガレン実写化について私思うの






最近ツイッターが実写化に関する阿鼻叫喚で溢れている。

ハガレンの実写化にはじまりなに?次はジョジョなの?

今朝のワイドナショーで取り上げられたこともあって阿鼻叫喚ぶりも収まりがない。





毎度毎度漫画・アニメなどが実写化するたびに賛成派と反対派でプチ戦争みたいなものが起こるが今回それについてわたしの思うところを書きたい。




今回騒がれているハガレンの実写化について、アニオタであると同時にジャニオタである私としてはどちらの気持ちもわかるつもりである。
好きな作品が実写化されることに対する戸惑いも、好きなタレントが起用される喜びもわかる。だからこそ色々と思うこともある。






■メディアの違い

実写化に嫌悪感を持つ人たちの言い分としてよく見られるのは
・世界観が実写では無理
・ビジュアルが無理
など、視覚的不満を持つ人が多いように感じる。他には有名な原作を使えば儲けられると考えているであろう制作側への不満や尺への不満も見られる。


元々ハガレンは漫画が原作で、次いでアニメ化、そして現在実写化の決定に至る。

なぜアニメから実写に至ると批判が集まるのか。


メディアとしてハガレンの推移を見ると当然だが
漫画→アニメ→実写 
という形になる。

私の考えとして、物語の媒体としてのメディアは大きく見ると文章(詩・短歌等含む)、漫画、アニメ、実写、楽曲に分類され、具体性を持っていく流れを
「文章→漫画→アニメ・実写」
と表せるのではないか(楽曲に関しては文章の前後どちらかと考える)。文章での表現が心の声や時系列を自由に行き来しやすいことなどから具体性の位置が妥当ではないと考える人もいるかもしれないがあくまで一例である。

文字表現だけの文章に、絵やコマによる動きが加えられた漫画、それらに色・声・音・具体的な動きが加えられた漫画、となる。

そしてここで実写の立ち位置だが、私はアニメと実写の表現の具体性に関しては同列に置くことができると考える。

アニメと実写の違いとは何か?
実写になることで失われる表現は?また逆に実写がアニメになることで失われる表現はあるのか?

ハガレンを例にとると、西洋のファンタジー的世界観が実写では無理があるという意見が見られる。失われる表現としての懸念を挙げるならば、「世界観」を挙げることもできるだろう。
しかし昨今の技術力の進歩ならそこまで心配することもないと感じる。ハリーポッターなんて魔法界でドンパチしてるのに実写されても違和感なく楽しめるのだ(原作ファンももちろんいるが)。お金をどれだけかけるかにもよるだろうが、メディアの違いからアニメから実写にするにおいて失われる表現がそこまで大きいとは考えにくい。

アニメと実写は、映画という観点から見ると、物語を描く次元が二次元と三次元(場合によってはCG映像を含む)で異なるだけで、表現の要素としてはどちらかが劣ることはないはずなのである。




■最初になにに触れたか


アニメから実写になることへの不満はなぜくるのか。
今回のハガレンに関しては公開前から批判が集まっていることが注目点である。制作が決まっただけで見てもないものに対してなぜここまで批判が集まるのか?

単純だが最初に触れた作品への思いからくるものだと考えられる。

アニメファンからすると実写の完成度云々の話ではない。アニメで完成されたハガレンを別の媒体ですることが信じられないという感情が敵意となってしまうのではないか。

例えば肉じゃがでも家庭によって大方豚肉か牛肉かで分かれるが、豚肉家庭は「牛なんて乳臭い肉で作れるわけねーーーだろ!」、牛肉家庭は「豚なんて安い肉使って貧相な肉じゃがだな?」となるわけであるが、別に豚にも牛にも優劣は無いのである。豚も牛も美味いのである。稀に鶏派もいるのである。


アニメと実写に関しても同じことが言えるのではないか。
今回のハガレンに関しては原作が漫画だったこともあり、漫画→アニメときたことからハガレンといえば漫画・アニメだという考えの人が多い。だからこそ以降に決定した実写という別の表現を受け入れがたいのではないか。ハガレンのイメージをアニメで育てた人は実写を受け入れがたい。肉じゃがのイメージを牛肉で育てた人は豚肉を受け入れがたい。
そして、自分が育ててきたイメージを肯定的にする・守るため別の表現を攻撃してしまうのだ。豚肉で肉じゃがを作る人を、自分が牛肉で肉じゃがを作ってきたことを肯定するため貧乏人だの油っぽいだの罵ってしまうのだ。全ては愛からくるのである。





■付け加えられる悲しみと削られる悲しみ


ハガレンは実写映画化ということで、ファンからすると二つの問題を抱えている。

まず一つ目は先程まで書いていたように実写に対する受け入れがたさであるが、もう一つは映画化という点である。

漫画からアニメ化となると、キャストや作画の心配はあるにしてもアニメ化される前から尺のことで批判が来ることはあまりない。
アニメ放送が決まって、例えそれがワンクール分であったとしても基本30分を12話分で6時間は見込める。しかもワンクールとは限らず何クールも続けば問題は無いからだ。

しかし今回は映画化ということで、見込める時間といえば多くて2時間前後だろう。シリーズにならない限りワンクールの三分の一程度の時間で物語を構成しなければならない。

漫画やアニメで描かれていた全てのキャラクターの描写や過去を2時間に詰め込むことはほぼ不可能である。
そのことからストーリーを削られることが予想され、ファンはそのことに対する悲しみがある。
そしてその削ったストーリーから来る矛盾の補填や映画版に収めるための工夫として、原作やアニメにないキャラクターやエピソードの追加も予想され、そのことに対してもファンは悲しまざるを得ない。


原作・アニメファンは、映画という制約から削られる悲しみと付け加えられる悲しみの二つを見る前から予期している。




■締め 


じゃあ実写映画化はしないほうがよいのか?

正直別にしなくても良いとは思う。だって今まで何年も実写化されてなかったけど実写で見た〜〜いと思ったことも考えたこともなかったし。


でもやると決定したら別にそれを批判する必要もないと思うのだ。

原作者の意思に反して勝手に実写映画化するともなればそれは批判されても仕方がないが、仕事をする人たちが円満に製作する限りは、批判する理由もない。

ジャニオタしか喜ばねえ映画作るなというような意見も見られるがジャニオタが喜んで見ればそれはそれで結構なのではないか。ジャニーズをつかってジャニオタが釣れなかった時の方が悲惨である。

普段アニメや漫画を見ない人がハガレンのストーリーを見るきっかけと手段としての実写映画化と考えれば万事解決するのではないかと思う。映画は見ることを強制されることはない。原作やアニメが好きな人は実写は見ずに自身の中のハガレンを変わらず持っていればいいと思う。実写なんて無かったことにすればとりあえず心穏やかになれるはずだ。



私自身ちょっと昔の小説やミステリーが大好きなのだが、それらの小説がブームや記念的な意味でアニメ化・漫画化・ドラマ化したことがある。
見てみてめっちゃいいやん〜〜てなる時もあればいや私は何も見てない何も無かったと即刻見るのを止めたものもある。
何がダメだったのかもわからないようなものもあれば、主人公の性別を変えられても楽しめたものまであった。

元も子もないことを言うと個人の好みなのである。

元々好きだった作品のビジュアルに惹かれていればビジュアルが変わった次作は批判したくなるし、構成に惹かれていればメディアの違いから来る表現の変わりようにも批判したくなる。元々の作品の何に惹かれていたかは人それぞれだ。全てに惹かれていたのなら次作は潔く見切りをつける。アニメ・漫画・実写のメディアの好みもあるだろう。



そして自分に合わないと思った作品にも少なからずファンはいるし、自分が好きだと思った作品を嫌いという人もいるからもうね、万人に受けるものは作れないの!なにも!仕方がない!
私が作った卵焼きをおいしいと食べてくれる弟とケチャップどばどばかける父がいるのと同じなの!だけど父の偉い点は私に文句言わないの!こんなクソ味薄い卵焼き作りやがってケチャップないと食えねえよボケとは言わずしかし問答無用でケチャップをかけます!

だから私たちも不満があるものにはいちいち文句言わないで黙って見ないなりケチャップでもなんでもかけて食べるなりすればよいと思うのです。