見境ないオタク

アニオタ・ドルオタ・腐女子という三重苦と共に生きています

セーラー服と機関銃、時をかける少女はなぜ女学生が主人公なのか

⚠︎このブログは私の勝手な推論かつ思い込みのみで構成されているので根拠も何もありません




赤川次郎セーラー服と機関銃

筒井康隆時をかける少女

といえば、どの世代でもほとんどの人が大体の内容が分かる位には有名である。

セーラー服と機関銃 (角川文庫)

セーラー服と機関銃 (角川文庫)


時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)

時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)


内容も作者も異なる二つの作品の共通点を挙げるとすると、「女学生」が「非日常」的な体験をするといったところだ。


そもそもなぜこの記事を書くに至ったかというと、この2作について少し話す機会があり、「この2作はなぜ長く人々に読まれているのか」という話題になったから。

その時ちょっと思うところあり、それを今回消費したい。


そもそも一回目なので少し私の傾向について書くと、早い話オタクである(オタクという括りについて色々な考えがあるがここでは深く触れない)。

しかも少々質が悪くオタクというカテゴリーにおいて今思えば雑食にも程がある過程を経ており、簡潔に表すと小学生から現在までの嗜好の流れは

アイドル→アイドル夢女子→声優→アニメ→アニメ夢女子→ホモ百合→アイドル

とまるで終わらないメビウスの輪の上にいるような堕落っぷりで現在は全ての沼に満遍なく五体投地という御察しの状況である。


つまりここでは上記の私が経てきたオタク的視点を以って書いていきたい。


長くなったのでもう一度今回の内容を書いておくと、「オタク的視点で見る『セーラー服と機関銃』『時をかける少女』の共通項と魅力」といったところです。



前にも書いたように『セーラー服と機関銃』と『時をかける少女』の共通点を挙げるとすると大きく二つ、「女学生」が「非日常」的な体験をするという点ではないだろうか。

この2作は作品発表から現在までの間に何度もメディア化している。時代が変わっていく中でこの2作がメディア化され続けるのは何故か。ここでは二つ挙げていく。





考えられる一つ目の要因は、その時代のトレンド女優を起用しやすいということ。

この考えは配給側の都合の問題が大きく関わるのであまり面白くはないが一応書く。


主人公が女学生という点に注目した結果の要因がこれであり、今更書く程のことでもないが早い話「今人気の女優でイッパツ当てたいので絶対コケない話」を求めるとこの2作に行き着く、という予想だ。赤川次郎筒井康隆で大きくコケる方が難しいのではないか。うまい話だと思う。橋本環奈ちゃんで『セーラー服と機関銃』を映画化するらしい。とても見たい。





では二つ目の要因。簡単に言うとこの2作は女の心をがっちり掴む、ということ。今回のメインである。

この論はあくまで女性が読者、視聴者という前提で進める。そしてここでついに私のオタクライフが関わってきます。

2作の共通点として挙げた「女学生」と「非日常」、察しのいい方ならお気づきでしょうが、夢小説・ドリーム小説によくある設定である。簡単に夢小説について説明すると、

主人公=自分とアニメキャラ・芸能人の小説である。小説といっても大体は主人公=自分がアニメキャラや芸能人と恋仲になるとかいうもので、かつて私も読み漁り書き漁った。というか今でも読める。久々に読みたい。


そんなうまい話あるわけないじゃないか、という方も居るかもしれない。そもそもアニメキャラなんか住んでる次元違うじゃねーか。

そこで力を発揮するのが、「非日常」である。そう、ご存知「異世界トリップ」設定である。私はこの設定を最初に考えた人に口座番号を教えたい位感謝している。私たちに夢を与えてくれてありがとう。


異世界トリップ設定とは、読んで字のごとく異世界にトリップする設定である。つまり自分が二次元にワープするといった感じである。そのワープ方法は筆者によって様々で、ポピュラーなものを挙げると

・朝目が覚めたら知らない天井が見えるタイプ

・不慮の事故で死亡し気付いたら異世界タイプ

・作品が好き過ぎて念じまくったら異世界タイプ

といったところだろうか。

主人公の特性も様々で、作品の前知識を持って異世界トリップする場合や、何も知らない状態で訳も分からず知らない世界に異世界トリップする場合などバリエーションは無限大にある。

女子たちはこの異世界トリップ夢小説をもってすれば、二次元に行くことも可能なのだ。女子たちは夢小説を読むことで普段体験できない「非日常」を疑似体験できるのだ。アイドル夢小説でもほぼ同じことが言える。突然芸能人と知り合ってただの一般人である自分がイケメンに口説かれるなんてとんでもファンタジーにもほどがあります(幼馴染設定等を除く)。これも「非日常」でしょう。  


そしてもう一つのネックである「女学生」だが、大体の夢小説における主人公の設定は「女学生」と言ってもいいだろう。これは読者層・作者層が学生が多いことも大きく関係するだろうが、一つ看過できないこととして、「学生を終えた人も女学生の設定を受け入れることができる」という点があると考える。これは完全に私の経験からなので一般論ではないが、そこまで見当はずれではないと思いたい。例えるなら、主人公設定が中学生だとしても高校生の自分を投影できる、といったところだ。少なくとも私はできた。女はいくつになっても夢見る少女なのだ。自分の年齢操作程度容易い。 


「女学生」は青春の象徴であり、ほとんどの女性たちが経験してきた身分である。そして今回の2作の読者層には当てはまらないかもしれないがそれ以前の世代、例えば幼稚園児・小学生などからすると、「女学生」はいずれ自分も通る道である。つまり、「女学生」は女性であれば誰でも自分を投影しやすい設定といえる。


課題に追われている、気にくわない教師に目をつけられた、単位が取れない、仕事が終わらない、このような投げ出したい現実からちょっと目を背けたい時に、「非日常」的な体験をする「女学生」という設定はうってつけではないか。






今回話題にする2作に立ち返る。

そもそもこの2作は夢小説のような視点で読まずとも(例えば男性が読んでも)十分に面白い作品といえるだろう。だが、長年読み続けられ、何度も映像化される鍵として、やはり「女学生」と「非日常」は無視できないと考える。夢小説は主人公の名前を自分の名前に変更することでより小説と自己の一体感を演出するが、この2作は主人公の疑似体験に加えて読み手の憧れを主人公に反映する読みも可能であると考える。

 


そしてここでメディアミックスについて。前にも書いたが『セーラー服と機関銃』と『時をかける少女』は作品発表から現在までの間に複数回映像化されている。

しかし、全く同じ内容でリメイクされているのではなく、主人公の性格、時代に合わせて携帯電話などを投入するなど、見る側の時代に添った細かい改変が見られる。なぜそのようなことをするのか。リメイクするからといって必ずしも時代まで合わせることはない。そこにはやはり視聴者・読み手を登場人物・作中に投影させるための工夫が見られると考える。

何度も映像化されるこの2作は、女はいつまでたっても夢見る少女、という心理をうまく掴んだ作品といえるのではないか。




ここまで長々と書いたがつまり言いたいのはこの2作とっても面白いということである。



結局まとまらなかったが、メモ書きのようなものなのでこれにて以上